四国まんなか地区現地調査 (後編)

私には嬉しい限りの予定時間の大幅延長! いざ塩塚高原へ!
塩塚高原の頂上は四国をぐるりと見渡せるのだとか・・地政学的にも重要だったと思われる地。

山の灯台

「山の灯台」として知られる泉田の高灯籠。前編でご紹介した安楽寺の近くである。
この四国まんなか地区は、左の写真のような山の急峻を切り拓いた集落が多い。

なぜ? こんなに不便な所に?
古代からこんなに多くの人が? という疑問が湧いてくる。

おまけ・・ではないが、この高灯籠の道を挟んだ反対側に、小さなGoogleマップだとのっていない神社があった。

大山神社で大山祇神と木花咲耶姫命が御祭神だそうだ。
諭伽神社の名前も見えるが、ググってもわからない。

上右の小さな石塔の四面に神様の名前が記載している所に気づいてしまうメンバーがすごい! 普通、スルーしてしまうやろ!

さあ、ここからずんずん登って、いざ塩塚高原へ! と言いたかったのだが、標高700mを超えたあたりから少し雪が見え、800m付近で危険だということで断念!
塩塚高原は愛媛県と徳島県の県境なのだが、ここから徳島県へ・・現在は愛媛県とか徳島県とか言っているのだが、当然古代には県境などなく、この地域は一つの文化圏だったのだと思われる。

半田岩

徳島県山城町頼広の黒川谷川にある半田岩。その美しさから、紅葉狩りやホタル鑑賞の名所としてしられている。

天正5年(1578年)長曾我部軍が田尾城攻略の時にこの地で休息と軍議をなしたことでも有名。その折に岩山が膳に似ている所から、飯台岩と呼ばれ、いつの頃からか半田岩の字が当てられるようになったとか。。

五十鈴神社

今回の調査旅で一番私の心に残ったのが、この五十鈴神社。
五十鈴神社といえば普通天照大御神に関連する神様が祀られることが多いと思うのだが、この神社の御祭神は不明。創建不明。巨石の上に鎮座する神社で、頼広集落の9つの神社を合祀しているそう。

半田岩のすぐ上のこの鳥居の先には何も見えず、知らなければこのまま通り過ぎてしまう。

細く、直線に切り立った岩の隙間を縫って入ると、そこは異世界! 多分半田岩の岩山の頂上?に祠がありますが、この石が御神体としか思えない。
この並行に切り立っている岩は、入ってきたココだけではなくわかるだけで3つある。

この付近には奇石が多く、先ほどの通称「へそすり岩」は特に注目されている。その形状や成り立ちが学術的にも評価がされており、地質学的な研究対象になっているからだ。地元の方によると、この「へそすり岩」は自然ではなく、なんらかの方法で人工的に切り出したものと推定されるとのこと。
この不思議な岩についての考察について見たい人は下のボタンをクリック!  
五十鈴神社だけではなく、普通近所の人以外見過ごすやろっていう近くの半田岩観音様もすごいのだ!

大歩危・小歩危&ランチ

大歩危(おおぼけ)は、徳島県三好市山城町にある吉野川のV字谷で、隣接する小歩危(こぼけ)とともに「大歩危小歩危」として国の天然記念物・名勝に指定されており、約2億年かけて吉野川が作り上げた断崖絶壁と清流が特徴。
緑泥片岩と高い透明度と太陽の光が融合し、この美しいエメラルドグリーンの美しい清流となります。

ランチを食べる時まで、この看板を見るなり平家の紋章「揚羽蝶」や落人についての考察に話の花が咲く調査隊メンバー。
全員立派な古代史オタクですね(笑)

住んでいる地域や世代を超え、話に花が咲き止まらないという至福の時間を過ごせるのもこの会の良い所!

大歩危駅には特別列車が停車中。うわさの「四国まんなか千年物語」ですね。

平家屋敷

せっかくだからついでに・・と言っては失礼なのですが、予定にプラスして平家屋敷に行ってきました。

残念ながらというか当然ながら館内は写真禁止ですので、皆さんもぜひ足を運んでみてください。
越智先生曰く、「平家の落人(おちうど)集落」「安徳天皇生存説」「無類の強さを誇った山岳武士」…、この3つも四国の“まんなか地域”の重要なキーワード。
キーワードの意味が知りたい人も、ぜひ、会員になって、このめっちゃ楽しい調査旅に参加してみてくださいね!  今回は私がいるので、皆さん入門編な調査旅にお付き合いいただきました。本当に楽しい時間でした。

追記 宣言?

今回の調査旅の車中の濃いトークの中から、次のような事を買ってに宣言することにしました!

エジプト文明(ナイル川)、メソポタミア文明(チグリス・ユーフラテス川)、インダス文明(インダス川)、黄河・長江文明など古代文明はいずれも大河の流域で発展しました。
そこで、吉野川とその最大の支流である銅山川に挟まれた(中央構造線と御荷鉾構造線に挟まれた)この吉野川上流域、すなわち四国の“まんなか”地域の独特の社会・文化のことを、私達「四国まんなか研究会」としては勝手に『奥吉野川文明(文化)』と呼ぶことにしました